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石田善人、中世村落と仏教、1996年、思文閣史学叢書 (Ishida Yoshihito, Villages of the Medieval Period and Buddhism, Shibunkaku Shigaku Gyōsho, Kyoto, 1996)

 

石田善人、中世村落と仏教、1996年、思文閣史学叢書 (Ishida Yoshihito, Villages of the Medieval Period and Buddhism, Shibunkaku Shigaku Gyōsho, Kyoto, 1996)

第一章 畿内の一向一揆について - その構造論を中心として - The basic initial outline of the argument by Ishida states that the phenomenon of ikkō ikki resembled in many ways the tsuchi ikki that had continued on since the fourteenth century, with the fundamental difference being that the ikkō ikki were inspired by the ikkō faith, this being the core element binding all of the participants together. Although the ikkō ikki could be seen as another form of peasant protest, the religious dimension that it holds makes the whole question of understanding the ikkō ikki just that much harder to comprehend.

- The author also states that unlike tsuchi ikki, developments in ikkō ikki related research are still far behind. One reason for this stems from the fact that studies into the ikkō ikki must look at the varied `characteristics` of the ikkō ikki themselves, how they constitute elements of religious war and tsuchi ikki and how they combine both the thought of the ikkō shū and the phenomenon of ikki.(p.205) - To quote Ishida on the nature of ikkō ikki and attempts to study it in relation to other peasant phenomena…”時期的に土一揆・国一揆に継起する畿内の一向一揆において、土一揆の体験を経てきた畿内農民はいかなる点において戦術的進歩を示しているか、それはいかなる政治的、経済的情勢に対応するものか、それにもかかわらずいかなる形で弱点や矛盾を内臓していたか、という事柄の分析を通じて農民闘争の発展との内部矛盾の激化を抽出してゆけば、逆にそれを超克した織豊政権の性格意義を評価する場合の一つの足懸かりとまるである”。(207)

- その後の説明によると、この50年間の一向一揆に関する研究は主に畿内と加賀に集中されて、おそらくその理由は当時の史料の豊かさである。ただ、本願寺の存在感は畿内にそんなに圧倒的であるほど、大抵の研究は本願寺が直接対応していた件に煮詰まって、他の地方(例えば、三河など)の一向一揆の研究が無視されているというような結論についてもしょうがない。(206-207) - 著者によると、畿内の門徒団は三つの型に分類する。第一はいわゆる近江北部、大和南部、和泉南部、紀伊、と播磨。要約すると「(この地辺)は畿内先進地域の中での比較的後進的な構造をもつ諸地域の門徒団であり、第二は近江南部、大和北部、和泉北部、摂津、河内、山城など先進的な構造をもつ諸地域の門徒団であり、その第三は堅田(かただ)によって代表される両者の中間型と考えられる構造を示す門徒団である」。(207) (ということで、江北型門徒、河内型門徒、と堅田型門徒団に仮称される)。

近江北部と浅井氏の関係: - 江北型の地方は蓮如以前からの開けた門徒地域であった。この門徒は江北の十か寺を中心に団結されて、「北部十ヶ寺衆・門徒衆」と呼ばれた。その寺は長沢福田寺、乾福勝寺、益田真宗寺、椱(ふく)木浄願寺、尊勝寺称名寺、湯次誓願寺、上坂順慶寺、新庄金光寺、木ノ本中道場、箕浦(きうら)誓願寺。各寺はいずれも浅井氏の領内にあった。 - 元亀(げんき)元年以後、全ての寺は浅井氏の懇請(こんせい)を容(い)れた本願寺の指令に基いて、浅井氏と連携して信長に対抗し、十カ寺盟約を結んで、以後織田信長一味衆への出相を堅く禁じ、信長方の者が死去した場合にも弔問はもちろんのこと一切の布施志納金の受納も拒否するを申合せ、十カ寺門下の下坊主及び一般門徒もすべてこれに準拠し、万が一違犯した場合は如来上人様の御罰を蒙(こむ)るべきものであると起請した。(208-209 This is verbatim, hence any quotes will have to acknowledge this).

- この集団は元亀二年(一五七一)五月六日浅井井規に指導されて、堀次郎秀村の本江城を攻撃した。合計の人数は26,600余(浅井三代記によると)。総数は26,000人を超えたことは特に信じがたいですが、いずれも大勢の門徒が攻撃に参加した。ただ、その門徒は横山城からの秀吉勢の襲撃を岐阜城よりの信長の救援軍の先陣と勘違って、暫時の間に破滅してしまった。門徒側の死者は約1800人といわれて、その中には数多くの指導者が戦死しました。彼らが専門的武力がなかったにもかかわらず、門徒の指導者は戦闘には危険な先陣を割り当てたので、当然としてそのぐらいの人数が戦没した。越州からの援軍が現らなくて、「門徒の国侍の中には思案替わりする者も出てくるという窮状に、不満と焦慮を禁じ得なかった十か寺連盟は本願寺にこれを訴えた」。(209)

- 天正八年(一五八○)、浅井氏の滅亡の後、本願寺が信長の大軍に囲まれて危機に立った。急遽書状は各門徒に送られて、その中には「石山への来陣を申し入れている。しかし彼ら(門徒)の在地における一揆体制はもはや望むべくもなく、個人的参加に止まったであろう。 - ところで北部一揆の特色は、十か寺が強力に門徒を組織し得たこと、その門徒には国侍が多数参加し彼らが一揆の指揮をとったこと、十か寺坊主はいずれも武士的性格をもっていたことなどであるが、一揆と浅井氏の関係は必ずしも万全でなかった事情も注目されねばならない。(211)There follows a further investigation into the origins of the leadership of the 北部 Monto, and how depending on geographical location the actual constituents of the Monto vary, for in some areas there are more small scale farming peasants, whereas other areas yield kuni-samurai and jizamurai, so the actual makeup of the Monto appeared to draw together groups from varying social circumstances. - Leadership of the Monto: the Kita Ōmi and Minami Yamato versions - This continues on from the earlier sentence…門徒団の構造についていえば、北部と湖東平野地域の一揆よりも構造的に後進性(backward)をもっていた。近江における初期検地帳の分析の結果、北部と湖東平野とではその地域構造が大きく相異している。すなわち北部には隷属的(れいぞくてき – vassal)小農民の自立度は低く、湖東平野にあっては高い。この相異は、当然検地以前の在地構造の反映と考えなければならないであろう。 とすれば北部一揆は湖平野地域の一揆と比べて、後進性構造をもっていたといわなければならない。「称名寺文書」中にある天正十九年の「尊勝寺郷内称名寺領検地帳」は当地領の分別を内約している。(石田の分析によって)尊勝寺郷の在地構造を推測することは不可能であるけれども、称名寺が在地においてかなり大きな田畠を所有し、かつ相当数の隷属農民を擁(ゆ)する在地小領主であった事を知ることができよう。称名寺は美濃土岐氏の裔(descendant-すえ) と伝え、文書には「御寺領六拾余石被官衆諸役免除之事」とあって、家来被官衆を擁する地侍的性格を有する。(211-212)

南大和吉野飯貝の門徒団:蓮如の二十五子実孝が開拓した。大和の南部山地に中心された(興福寺の支配はそこまであまり及ばなかった)。その地域には伊勢の北畠氏の勢力は強く、紀伊守護の支配力もかなり強かった。一向宗の勢力は早くから入って、蓮如は寛正年間にはその地域を遊化し、応仁二年(1468)十二月中旬ごろ、吉野、高野を巡錫(じゅんせき)した(次第に門徒が増加し、吉野衆、奈良衆は明応四年(1495)に蓮如に御坊の建立を要請した。その後、願行寺が建立されて、石垣を積上げ、桜門を備えた城郭(じょうかく)のような寺院であった)。(213) その門徒の構造はあまり明らかではないが、上市(以前寺院を要請した地域の一つ)の藤右衛門尉(い、うつ)、彦右衛門尉とその陪臣的門徒衆を擁する有力名主層、つまり同行衆を擁する地侍が門徒団の指導的地位を占めていたが推測される。 そのほか、油屋弥四郎、薬屋宗三郎―大峯売薬―つまり商民も門徒になってはいるが、豊裕な行商的商人であっても、門徒団内部にある地位はあまり重要ではなかった(堅田の商工業者のように)。(213)

鈴木孫一、土橋若太小夫が指導した紀伊一揆(杉坊以下悪僧的根来衆を加えた雑賀衆)は、これらの土豪門徒によって指導され統率された一揆であって、構造的に江北型に類似する(213)(then goes on to describe the make-up of Neraiji and its composite body of Monto, along with other affiliate groups). この門徒団の共通した性格は、門徒団が地侍または有力名主層の指導権の下にあったこと、隷属的小農民の自立度は低く、なので彼らと地侍または有力名主層の内部的対立が表面化する階段に達してなかった。未寺坊主の多くは地侍的性格を濃厚にもっている。これらの門徒団を江北型門徒団を名付ける.(214)

© Greg Pampling. This page was modified in December 2011